Vol.5は
コチラをクリック!いよいよ今週末に三重県鈴鹿サーキットで行われる
鈴鹿8時間耐久レースに向けて、事前情報をお伝えする
ROAD to SUZUKA
第6回は、海外参戦を経てホンダ8耐レーサー軍団の
中核となった男達の物語をとりあげます
全日本選手権が現在より盛り上がっていた90年代~00年代前半にかけて
九州・熊本のホンダ工場隣にある二輪販売店㈱RSCを母体としたレーシングチーム
「
チーム高武」の出身者達は、数多くの全日本・世界タイトルを獲得しました
RSCとは、ホンダレーシングの前身であり1960年代頃に
当時各地でさかんに行われていた草レースに参加するアマチュアレーサー向けに
ホンダが行っていたサポートを統括する組織の名前で、
設立当時の社長である
武 富久美氏はRSCの第一期ホンダ社内レーサーでした
九州の有力チームとして、全日本選手権でもホンダのセカンドチーム的存在で
一年落ちのワークスマシンを有望な若手に与えての人材育成を行っていました
下の写真は、96年に高武が走らせていたNSR250です
ホンダトリコロールを大胆にアレンジしたデザインは当時から人気でした

チーム高武の名を有名にした2人のライダーをまず紹介します
前を走るのが、motoGPライダーの故・
加藤大治郎後を走るのが、同じく元motoGPライダーの
宇川徹チーム高武入りは宇川が加藤より先輩にあたります
2人とも高武にて武者修行を行った後、ホンダワークス入りし
全日本を制覇した後、世界選手権へと飛躍して行きました

2人は全日本時代から先輩・後輩の間を越えた最大のライバルでした
加藤が全日本選手権上位選手のシード権で地元枠として1戦のみ参戦した
97年世界選手権WGP(現motoGP)日本GPで、当時ホンダのエースとして
参戦しつつも未勝利だった宇川を最終ラップで抜いて優勝を遂げてしまった辺りから
2人の仲はビミョーな空気になってしまいました
加藤は常に飄々として、別に何も気にしていないのですが
宇川は先輩としてのプライドからか、「加藤にだけは負けたくない!」と
闘志を剥き出しにしていました
そんな関係の2人が初めてコンビを組んで参戦した2000年の鈴鹿8耐
下馬評は
第4回で紹介したホンダのエース岡田・伊藤組の優勝のハズでしたが、
終わってみれば、淡々と走る加藤と対照に、「オレがホンダのエースだ!」と
熱~い走りを魅せた宇川のコンビは最多周回記録を更新して優勝してしまいます
表彰台では、いきなりツナギを脱いで肉体美をアピールする先輩につられ、
加藤も脱いで表彰台下に集ったファンに装備一式をプレゼントさせられました

その後、加藤は世界選手権250ccクラスを最多優勝記録を更新して制覇
いよいよ世界最高峰タイトル制覇を期待された2003年のmotoGP開幕戦、
得意中の得意だった鈴鹿サーキットにて不慮の事故により亡くなってしまいました
開幕前、ホンダライダー勢揃いの写真にて3人の日本人ライダーが写っています
写真手前の赤いバイクを操るのが
玉田誠、そして1人置いて黒い帽子を被った宇川徹
右から2番目が加藤大治郎
全てチーム高武で鍛えられ、世界に羽ばたいたライダーでした

加藤のチーム高武時代の同期だったのが、玉田誠です
同じGP250に参戦していた当時は、加藤に比べ血気盛んな玉田は
成績が伸び悩んでいましたが、より大型な750ccスーパーバイクに
クラスを変更した途端に、成績が急上昇
2人で組んだ99年の鈴鹿8耐では、セカンドチームからの参戦でしたが、
雨で加藤が転倒するまで優勝した岡田を追い掛けまわしました
その後、00年には全日本で旧型のRVFながら新型VTR1000SPWを操る
伊藤を退け、翌2001年ホンダワークス入りする活躍を見せました

しかし、伊藤・岡田が退いたとはいえど、まだ上には宇川・加藤がいます
ホンダ陣営の豊富なラインナップでは全日本タイトルを圧勝して獲得しないと
世界への道は容易には開けないのです
しかし、玉田は裏技的に「ブリジストンタイヤの実戦開発ライダー」として
2003年のmotoGPライダーの座を手に入れます
こうして加藤と互角に勝負出来る土俵まで上り詰めたのです
しかし、開幕戦の事故で加藤が他界・・・玉田の目標がいなくなってしまいました
そして玉田は「世界一」を獲って、自分より速かった加藤がいたなら
自分は「世界二」であると皆に言ってみせる!と言い始めたのです
それを実現すべく、ブリジストンタイヤの開発が進むと共に成績も急上昇
世界王者ロッシに「ブリジストンタイヤのオカゲで勝ててるだけ」とまで
心理戦を仕掛けられる程に優勝候補の一角として成長したのです

その心理戦に引っ掛けられた玉田は、同じミシュランタイヤでロッシを倒す!と
息巻いて参戦した2005年、モノの見事にボロ負け・・・
タイヤの変更がここまでライダーの成績に直結する事を世界中に教えてくれました
成績が急降下し、スポンサーも失った玉田は失意のうちにmotoGPを去りました
その後、世界王者にブリジストンタイヤは必須条件となったのは、なんとも皮肉です
もう1人、チーム高武から世界に羽ばたいたライダーを紹介します
清成(キヨナリ)龍一です
鈴鹿サーキットにあるレーサー養成学校・
鈴鹿レーシングスクールを卒業後、
GP250に参戦を開始した当初は目立った活躍がありませんでしたが、
市販車の600ccを改造したST600クラスに参戦を開始した02年、
いきなり才能が開花、さらには市販車改造の1000ccレーサーで
スーパーバイクやmotoGPマシンまで参加していたレースで優勝!
一気に国内トップライダーの1人として認知される様になりました
そして、03年の事故で加藤が他界した後、後継者としてホンダの推薦もあり
いきなり全日本でのタイトル争いを経験する事なくmotoGPへと
本人の望まぬ形で送り込まれてしまいます
いきなり世界の大舞台・・・イタリア語主体のチーム・・・
知らないサーキットを転々とする生活・・・加藤の後継のプレッシャー・・・
まだ若かった清成は、満足な結果を残せないままmotoGPを去ります

改めて清成を鍛えなおそうとしたホンダは若手指導役の岡田を監督に据えて
全英選手権スーパーバイククラスに清成を送り込みました
当時、ワークスチームの参加が自粛された全日本や改造範囲を狭めた
世界市販車選手権(SBK)に比べて、まだ全盛期の改造マシンの参加が
OKだった全英選手権にはスズキもワークスを送り込んでいました
そして、世界中から一旗挙げようと血気盛んに参戦してくる若手ライダーの中で
揉まれた清成はメキメキと力をつけ、参戦3年目にタイトルを獲得しました

その後、SBKに参戦した玉田と清成でしたが
世界的な経済危機の中、日本からのスポンサーを持ち込めない二人は
残念ながら活動の場を失ってしまいます
清成は個人スポンサーでもある日立建機の海外ブランドであるHMのおかげで、
古巣の全英選手権へ復帰しましたが、ホンダからの支援はないのです
しかし、2人とも活躍の場が例え少なくなってしまったとしても
もう一度世界へと羽ばたける様に、ホンダのエースの座を取り戻す為に
今年も鈴鹿8耐へ参戦します
鈴鹿8耐で清成は、毎年ホンダのエースの証であるゼッケン#11を付け
自らが全英選手権で開発してきたCBRを操り、何度も優勝争いに加わりました
05・08・10年と鈴鹿8耐で3勝を遂げたのは、現役では他に伊藤だけです
今年の清成は#11TSRホンダの予備ライダーではありますが、それは清成が
他のチームにいたのではホンダ系チームでの同士討ちの恐れがあるからでしょう
一方、玉田は昨年優勝した#634ハルクプロで岡田と共に万が一の予備として
ホンダの優勝を磐石のモノとする為に参戦します
そこまでして勝ちたいか!?ま、大人の事情は色々ありますが2人の熱い走りに期待しましょう
写真は、今年のホンダライダーグアムトレーニングでの左・玉田と、右・清成
・・・脱ぐのは高武の血なのでしょうか?

さて、次回がいよいよ有力ライダー紹介の最終回です
昨年の日記でも取り上げた2人の漢の物語のその後です